お月様、ヒナドリ、とろけたマーガリン

映画やマンガ、ゲームなどの無知と偏見に基づいた感想

『いちご100%』ハーレムマンガとしての自己言及性

 子どもの頃夢中で読んだ河下水希先生のラブコメマンガ。

 以下あらすじ。

 映画監督を夢見る中学3年生の真中淳平は、屋上でいちごパンツの謎の美少女と出会う。彼女のパンツをカメラに収めたい真中は、学校一の美少女・西野つかさに告白し見事付き合うことになるが、屋上の美少女は西野ではなかったことが発覚。一見冴えない学校一の秀才・東城綾(後に屋上の美少女だったことが判明)や、進学した高校で出会う北大路さつき南戸唯らとのハレンチかつ甘酸っぱい学園生活を送りながらも、映画製作に励む青春劇。

 この作品、なにがそんなに魅力的かというと、当然女の子がかわいいとか、絵が綺麗だとか、いろいろあるんですけど、一番はドラマの描き方。文学的とすら言える、今振り返ってもこれがあの「週刊少年ジャンプ」で連載し、人気を博していたとは思えないほど、いい意味で少年マンガらしくない、情緒豊かな描写が美しい。

 そんな本作の特筆すべき点は、表題の通りその「自己言及性」だと思います。

 本作は、主人公達が映画作りをするというメインプロットだし、おそらく作者自身、映画がとても好きなのだと思うのですが、登場人物が映画を観るシーンが多々出てきます。それが当時話題のファンタジー大作(『ロード・オブ・ザ・リング』を思わせるタイトル…?)だったり。

 主人公(真中淳平)は物語中盤から商店街の片隅にある名画座でアルバイトを始めるのですが、その雇ってもらえるきっかけになるエピソードも、映画を観るシーンです。

 引用するのは、真中が名画座で50~60年代のとある映画を観て号泣するシーン。真中はこのシーンに至るまでに、女の子達が示してくれる好意に煮え切らない態度を取っていて、また未練がましくも中学時代の彼女のことを付き合っていた時よりも考えてしまっている自分に、自己嫌悪を抱いています。そんな中、部内の女の子と気まずくなり部活を早退し、後輩から渡されたタダ券で映画を観に行きます。

 要は複数の女の子から言い寄られながらも、その誰にもいい顔をし、いい思いをしているのに、同時にそのことへの罪悪感も抱いています。

 以下シーンを抜粋。

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 本作はまあ、ちょっと言い訳できないほどに、いわゆるところの「お色気マンガ」「ハーレムもの」の部類なのですが、ただそんな「ハーレムお色気マンガ」で、その渦中の主人公がまさに「ハーレムもの」的な内容の映画に感情移入して号泣するなんて、ちょっと他では考えられない様な自己言及性だと思うのです。

 映画やマンガの中で、登場人物が映画やマンガを観ている(読んでいる)場面というのは、まさにそれを鑑賞している私たち観客(読者)の写し鏡であるとはよく言われますし、または「作者の想定する観客の姿の提示」かとも思うのですが、それをこんな「お色気ハーレム少年マンガでやるなんて…!!

 こういったジャンルは要するに、浮気性な主人公の「最低さ」を、しかしそうとは思わせずに「少年少女たちの夢」だなんてオブラートに包みながら、都合よくドキドキする部分だけを描くものなのに、その「最低さ」を主人公(と彼に同一化する読者)へこんな形で突きつけるなんて!

 この作品は2002年~2005年にかけて連載されていた作品ですが、この頃以降、世間的にもいわゆる「昭和的な」無頼漢で硬派で、幾人もの女を魅了する「肉食な」男性像こそが良しとされていた時代から「平成以降の」真面目で一途で「草食な」男性がイケているという、ジェンダーイメージも脱皮を始める時期かと思います。*1

 そんな中で「ハーレムお色気マンガ」の、男性主人公の(最低な)行動に言及しているという点は(しかもそれを「少年」の中心「週刊少年ジャンプ」紙上で!)、未だに他の追随を許さない、もっと評価されるべき作品だと思います。

*1:外見上や「キャラ」上は、「冴えなくて」「真面目で」「おとなしい」「草食系」でも、思想や考え方は昭和的なマチズモばりばりの男性像を肯定している=自分もそうなりたいと願っているというキャラは今でも多いし、主流だと思います。いわゆる「硬派」。「男は多くを語らない」とか、「腕力などのフィジカル/学力などの知力は、女の「あいつ」より男の「オレ」のほうが勝っている」など。本作も主人公の思想にマチズモ的な部分があることは否定できません