お月様、ヒナドリ、とろけたマーガリン

映画やマンガ、ゲームなどの無知と偏見に基づいた感想

アンパンマンたいそうがすき

アンパンマンたいそう』という曲が大好きです。

アンパンマンたいそう

アンパンマンたいそう

  • ドリーミング
  • チルドレン・ミュージック
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誰もが知る大人気アニメ『アンパンマン

その主題歌の『アンパンマン・マーチ』が屈指の名曲だということはご存じの方も多いと思うのですが、もうひとつこの『アンパンマンたいそう』も隠れた名曲なんです。例えると『マーチ』が元気にブーストをかける「陽」性の曲だとしたら、『たいそう』は地に伏して身動きすらままならない時に「効く」、「陰」性の曲だと思います。

『たいそう』の歌詞はこう始まります。

もし自身をなくして

くじけそうになったら

 この時点で

「え!そうです!くじけそうになってます!」

「っていうか、なんならくじけてます!今!」

と思われたかと思います。

そう切り出されたからにはこうも考えると思います。

「なったら…?!くじけそうになったら…なに!?どうすればいいの!?」

「どうすればいいんだよ!やなせ先生!」(※作詞はやなせたかし

…と。

そこで歌詞はこう続きます。

いいことだけ いいことだけ

思い出せ

いいの!?

謂れのない暴言暴力を食らい、自尊感情をごっそり削られた時、

または自身の努力が実を結ばず、地に伏している時、

人はネガティブになるだけでなく、自身を否定してしまいがちです。

「自分なんて」

「だからダメなんだ」

でも『アンパンマンたいそう』は言います。

いいことだけ いいことだけ

思い出せ

いいの!?

いいんです!

f:id:inlhl:20210529152959p:plain

いいんです!

そんな、いいことだけ思い出すなんて無責任に思ってしまいます。だって自分はこんなにダメなのに。

でも、

くじけそうになっている人に

果たせる責任なんてないんです!

だから

いいことだけ いいことだけ

思い出せ

なんです!

歌詞はこう続きます

そうさ空と海を越えて

風のように走れ

夢と愛をつれて 地球をひとっ飛び

どっか行っちゃったんですけど!?

待って!やなせ先生!置いてかないで!

そう戸惑っていると唐突に宣言されます。

アンパンマンは君さ

どうりで!

…勇気をだして

アンパンマンは君さ 力のかぎり

ほらキラめくよ

君はやさしいヒーローさ

どうりで!

だっておかしいと思ってたんだよ!

真面目に生きてきて、突然冷や水ぶっかけられて元気なくして、

俺がアンパンマンでないと説明がつかないもの!

俺がアンパンマンだったなら、もうやることはひとつです。

びしょ濡れの頭とっかえて、

この世の不条理をひたすら殴打

アンパンマンのみなさん、不条理に負けず歯食いしばっていきましょう!

プレステのCMに外れなし!!なんなら泣く!

私はwebCM、ラジオCM、テレビCMが大好きなのですが、中でもプレイステーションのCMは特に大好きですし、なんならたった15秒~30秒のCMで号泣するほど感動します。

新作ラインナップCM

一番目にする機会の多いプレステCMといえば新作ラインナップのCMかと思います。

特に2016年発表のtofubeatsのラップCM!!これを皮切りにした、新作タイトルの超かっこいい映像に合わせて、アーティストが(ゲーム内容の説明になってる歌詞を)歌っていくシリーズは大好きです。お馴染みのプレステロゴに合わせて出る「buun!!」*1マッシュアップして何度も頭出しするイントロで全てを持っていかれ、間違いない、イケてるtofubeatsのビートとラップと、ゲーム内サウンドのサンプリング・・・。ため息が出るほど全てがかっこいい・・・。これに続く形で、最上もがやRIPSLYMEのRYO-ZPESをゲストに迎えての掛け合いで歌っていくCMも、この世の全てのカッコよさを体現していると言っても過言ではない・・・!


加えて大好きなのが、ヨルシカの『夢の中へ』カバー(リメイク?)のCM。すごくオシャレでイケていて爽やかで美しい歌なのですが、歌っていることはファンタジーありロボットありのゲームの内容というギャップが大好きで、特にラストの大サビで「それより僕と踊りませんか」という歌詞と共に映し出されるゲーム内カットが、よりによって例の『フォートナイト』のダンスエモート!!!!なぜか毎回、見返すたびにここで泣いてしまうんです。なんだか、ゲームというカルチャーの素晴らしさとそれを称える美しさ、そして無邪気さというか馬鹿馬鹿しさ……(笑)。その全てがここに詰まっているようで、ゲームってホント、いいものですね…と泣き笑いしてしまいます。

プレステはラジオCMもいい!

それを差し置いてでも言いたいのが、プレイステーションのラジオCM「ラジオについての思い出」


大好きなラジオ番組『PlayStation presents ライムスター宇多丸のマイゲームマイライフ』でよく流れるのですが、これがもう尊すぎて死んでしまう!!!

もうあまりにも大好きすぎて、ラジオを録音したものを自分でCM部分だけカットして、自分で書き起こした脚本を片手に何回も何回も聞き直しているほどです。

描き起こしはこちら

PlayStation ラジオCM|ゲームについての思い出

―buun!!

A「ゲームについての思い出!」

B「ゲームについての思い出」

A「小学生の頃から、友達とよくゲームした!」

B「小学生の頃、周りの友達はよくゲームをしていた」

A「学校でやって起動音でバレて没収されたりっ!」

B「後ろの席のやつがよく没収されてたな・・・」

A「大学生の時は『テニスサークル』とは名ばかりの『ゲームサークル』所属!」

B「大学生になって初めてゲーム機を買ったけど、周りが上手くて・・・」

A「プロか、ってくらいやりこんだ!」

B「プロ級のやつが多すぎて挫折・・・」

A「社会人になってゲームからは遠ざかった・・・」

B「社会人になって夜ゲームをするようになった!」

A「ストレス発散は土日に山とかで・・・」

B「ストレス発散はその日のうちに、ってことで!」

A「あ、でも最近オンラインのRPG始めて!」

B「今一番やってるのはオンラインRPGかな!」

A「全然レベル上がらないんだよな、俺・・・」

B「もう大分レベルも上がって、僕かなり上級者だと思う!」

A「最近そこでよく世話してくれるベテランがいて・・・!」

B「最近ちょっとお手伝いしてる初心者がいて!」

A「土曜日はその人とプレイするのが最近の楽しみ!」

B「次の土曜日も一緒にダンジョン行く予定!」

A「あ~!早く・・・」

AB「ゲームしてぇなぁ!!」

ナレーション「今日も誰かがゲームの思い出、更新中!」

プレイステーション

ここが尊い「ラジオについての思い出」

 まず登場人物は2人の男性。この2人はそれぞれの人生でゲームに対して全く違う付き合い方をしてきました。Aは子どもの頃はゲームざんまい。たくさんの思い出があるのでしょう、嬉々として「ゲームをしていた思い出」を語ります。対してBは幼少期にはあまりゲームをしてこなかった為、「ゲームについての思い出」を語るときにゲームそのものではなく、「ゲームをしていたやつ」の話をします。また、語り口も決して明るい口調というわけではありません。

A「学校でやって起動音でバレて没収されたりっ!」

B「後ろの席のやつがよく没収されてたな・・・」

ここでまず、2人の思い出が一致はしていないが、交差はしているというのがポイントです。短いCMながらも秀逸な伏線になっていますし、また、ゲームにまつわる「あるある」を、ゲームに熱中していた人と距離があった人という2つの視線から描くことで、様々な聴取者の興味をつかむ役割も果たしています。

そして両者の思い出は大学時代から社会人時代へと進んでいきます。ここでなんと立場の逆転が起きます。少年時代ゲームに熱中していたAは「社会人になってゲームからは遠ざか」り、逆にゲームとは距離があったBは「社会人になって夜ゲームをするようにな」るのです。しかし、これもゲーマーあるあるで、どちらの言い分も理解できます。*2

Aが明らかに少年時代を語る口調からはトーンダウンした、または落ち着いて「大人になった」口調で現状を語る様子に、Aの少年時代を知る我々としては「そういうもんだよな…」なんて一抹の寂しさを抱き、そこへ続けてBが大人になって本格的にゲームをやるようになったなんて聞くと、それに対しても「イマドキはそういうもんだよな!」と嬉しくなります。ゲームと「離れた」寂しさを抱かせておいてからの「近づいた」話!!その喜びは段違いですし、それが綺麗に両者の関係が逆転している様子に驚き、一種の抜けの良さ、ターニングポイントを通過し物語が動き出すワクワク感を感じます。

そこで2人の物語は、子どもの頃とは「変わってしまった」状況を描いていくのかと思いきや、急旋回してなんとAがゲームを再開したという展開になります!

A「あ、でも最近オンラインのRPG始めて!」

B「今一番やってるのはオンラインRPGかな!」

しかもやっているのが同じ「オンラインRPG」!!ここで初めて交差し、すれ違っていた2人の物語が一致するのです!!しかも「あの頃」とは立場が逆転しています。子ども時代ゲームざんまいだったAは「オンラインRPG初心者」、子ども時代ゲームとは距離があったBは「オンラインRPGのベテラン」!そしてなんと2人はもうすでに出会っていて、「土曜日に一緒にオンラインゲーム内で遊ぶ関係」になっているのです。

そんな2人が同時に「ゲームしてぇなぁ!!」と言う瞬間、それぞれの人生を歩んできた中で抱いてきた各々の「寂しさ」が報われるんです!!なんて美しいんだ!なんて尊いんだ!どうか末永くお幸せに!!!

こんな奇跡みたいな話はもちろん物語の中だけかもしれませんが、そこで締めのナレーション「今日も誰かがゲームの思い出、更新中!」です。もしかしたらこんなことがどこかで起こってるかもしれないと思いを馳せることも可能ですし、でももしかしたらそれぞれ別に似た話を持っているだけの、他人の2人かもしれないという解釈もできるわけです。

 

この物語は例えるなら、別の画角に映されていた2人が、最後まで同じ画角に入ることのないまま終わる映画のような、でも確かに2人の間には絆のようなものが生まれているような、そんなオンラインでしか生じえない尊い絆を描いている作品だと思います。

前述したラジオ番組は、毎回有名人がそれぞれのゲームについての思い出を語るという構成の番組なのですが、その思い出達が見事に十人十色でありながら、でもどこか共通することを言っていたり、なんならほとんど同じ思い出を全然別のジャンルの人が語っていたりして、それはそれは面白く、このCMがこの番組で流れることの意味ったらないですし、ゲームに限らず、カルチャーや趣味が多様化している現代において、同じ趣味を持っている喜びってそういうことだよなぁなんてしみじみ思います。

*1:2019年12月に発売された『ケトル』のプレイステーション特集号で、初代プレステ発売時のCMを手掛けた黒須美彦氏が「なんて聞こえていてもいいですよ(笑)」としつつも「でも、僕がプレゼンした時は『buun!!』って言いました。だから、『buun!!』なのかな……」と公言している。個人的にはこれを聞いても「ジョンッ!」に聞こえる(笑)

*2:また、「夜ゲームする」は冒頭で少年時代を語っていたときに両者が言っていた「よくゲームした/をしていた」と韻を踏んでいるので、直前のシーンを思い出され、より当時との違いが際立ちます。この手法は全編を通して徹底されていて、必ず(言い回しや、少なくとも内容は)Aの話にBの話を対応させるように書かれていて、それが音声の気持ちよさ、あたかも歌の歌詞のような気持ちよさを生んでいます。

ディズニーなど映画や楽曲の「間違った」愛され方

私はディズニーアニメが大好きなんですが、中でも好きな楽曲は、

「Where you are」(モアナと伝説の海)

「Under the Sea」(リトルマーメイド) 

「Love is an open the Door」アナと雪の女王)などなどです。

 しかし、ご存じ大人気の楽曲たちですが、これらの曲は間違った愛され方をされていると思うんです。

現代に残るディズニーのブラックさ

アンダー・ザ・シー

アンダー・ザ・シー

  • サミュエル・E・ライト
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 『リトルマーメイド』の「Under the Sea」や、その『リトルマーメイド』と監督が同じで、かつ「海が舞台」ということでセルフオマージュを捧げているだろう『モアナと伝説の海』の「Where you are」は、生まれ育った海/島の外へ憧れている主人公へ、回りの「大人」たちが「君の生まれ育ったこの場所こそが素晴らしくて、外は危険なのだから、ずっとこの場所にいよう」なんて、いかにも楽し気に明るくポップに歌い上げます。それがまさに主人公を悩ませ、苦しませていることなのに。*1

いるべき場所

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  • Christopher Jackson, Rachel House, ニコール, アウリイ・クラヴァーリョ & Louise Bush
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  確かにこれらの歌は楽しく、そのキャッチ-さに思わず口ずさんでしまうのですが、これはディズニーの仕掛ける盛大な「皮肉」なんです。「地獄への道は善意で舗装」*2なんて言った人もいますが、「笑顔」で「善意」で自分たちの価値観を押し付けられることによる主人公の「逃げ場のなさ」、ひいては「孤独感」「むなしさ」を引き立てるためにこの曲は使用されているのです。「全き善は、全き悪より悪」*3。一番つらいのは、相手が心からの善意でこちらを苦しめることですよね。誰も自分のことをわかってくれないことの絶望たるや・・・!

とびら開けて

とびら開けて

  • クリステン・アンダーソン=ロペス & ロバート・ロペス
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 『アナと雪の女王』の「Love is an open the Door」も同様に、こちらは主人公のエルサ自身はこの歌唱シーンに登場しませんが、そこに至るまでにエルサの、定められた使命をまっとうできない若き女王としての苦悩や、他人とは違う自身の身体的性質への悩みに観客は共感します。そこへこうした「運命の人と出会って、理想的な恋に落ち、結婚する」なんて「真っ当な」人生を喜ぶ歌を歌う、この構造が盛大な皮肉(というかエルサ視点に入り込むほど、それは最早「絶望」・・・)なのですが*4、公開当時この曲があまりにも、お門違いな楽しまれ方をしていたことに当時から疑問に思っていました。

「意味の脱臭」がされる楽しまれ方

アナと雪の女王』公開当時、YouTubeには「『Love is an open the Door』をカップルで歌ってみた」という動画が山のようにアップされました。それ自体は微笑ましいことなのですが、上記のような楽曲の意味(皮肉)を踏まえると、この曲を実際にカップルで歌うことは、「二人の関係性は押しつけがましい皮肉」、ひいては「薄っぺらな上辺だけのもの」と表明しているようなもののはずなのですが、当時YouTubeで楽しそうに歌っているたくさんのカップルにその自覚はなさそうで、その光景自体が壮大なブラックジョークのようなありさまでした。

「Under the Sea」も同様で、テーマパークでの使用のされ方や、歌番組やカラオケでの楽しまれ方は、どれも「海の底の楽しい楽しい生活」を心の底から喜んでいるように見受けられるのです。作中喋ることを禁じられたアリエルを表すかのように、そこにアリエルの「悩み」や「孤独感」は微塵も存在しません。

『大人帝国の逆襲』ホントに観たの?

 これらのことはファインディング・ニモを観て「ニモ(カクレクマノミ)飼いたい!」と言ってしまうことにも通じていて(「ホントにその映画観たの!?」と疑いたくなります)、ディズニー以外でも例えばクレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の親しまれ方にも私は同様のことを感じています。

  あの映画が描いているのは、大人たちが自分たちの「大人としての責任」を放棄して懐古趣味に「とさかの」先まで浸かっている様への皮肉なのに、本作の年月を経て評価される部分は、ひろしの回想シーンや、「フルキヨキ」昭和の街並みや雰囲気です。*5

 本作が公開されたのが2001年で、その後年月を経て上記のような評価をされていく様はまさに「平成=大人になりきれない大人の時代」を象徴するかのような現象に思えてなりません。

 そうは言っても映画や楽曲の楽しみ方というのは人それぞれ自由で、「正解」なんてないと思われるかもしれませんが、映画の描いている「意味」や「テーマ」が脱臭されるのは問題だと思いますし、映画ファンとして強い悲しみがあります。さらに言うなら解釈/楽しみ方に「正解」はないけど、「間違い」はあると思います!

 まあ、私自身も日々お皿を洗いながら、シャワーを浴びながら「すっばらっしー!♪アンダザッシーッ!♪」とかご陽気に歌い上げているのですが・・・。

*1:『リトルマーメイド』でのアリエルは曲中、ただ戸惑ったり雰囲気に流されるばかりですが、その27年後に公開された『モアナ』では、曲の後半、島の掟を歌った同曲をモアナは自らメインボーカルに躍り出て高らかに歌い上げています。島の掟に逆らってきたいたずらっ子のモアナが島の掟に自身を同化させ、さもそれが「大人になった」かのように周囲から祝福されます。曲は最高潮の盛り上がりを見せる中、しかしモアナ自身は明らかに無理をしている/迷いがあることが、キャラクターの芝居(アニメーション)だけで表現されていて、その手際のよさに舌を巻くばかりか、オマージュ元からの「テーマの更新ぶり」に、美しさすら称える素晴らしいシーンです。

*2:RHYMESTER『ダーティー』(アルバム『ダーティーサイエンス』収録)より

*3:宮部みゆきブレイブ・ストーリー』(角川)より

*4:「Love is an open the Door」はさらに、アナのパートとハンス王子のパートが歌詞の上でも、話が嚙み合ってるようでいてハンス王子がアナの言うことに同意しているだけなのが、後半の展開の伏線にもなっています。中島みゆきはかつてこう歌いました「君のこころがわかると たやすく誓える男に なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう」(「空と君とのあいだに」より)はあー・・・まじみゆき・・・

*5:2005年公開の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』はこの映画を受けて、その「フルキヨキ」部分のみを抽出して大ヒットしたのではないかとにらんでいます

『ハリーポッター』シリーズで学んだ想像力の限界

 このブログのタイトルはハリー・ポッターと賢者の石に出てくる(でたらめの)呪文「お日様、ヒナギク、とろけたバター*1のパロディなのですが、私は子どもの頃にこの原作小説を読んでからシリーズの大ファンです。

  本シリーズは今さら説明するまでもないと思いますが、イギリスの児童文学が原作で、映画化もされた大人気シリーズです。 

  私が初めて本作を読んだのは小学校2年生の時で、担任の先生に当時4巻まで出ていたのを紹介されたのが最初です。今でも読書は大好きですが、そのきっかけとなったのはこの本に出会えたことで、そういう読書の原体験が本作だという人は我々世代ではとても多いと思います。

 この本は児童文学ではありますが、挿絵がほとんどなく、当時の日本語訳版ではかなり抽象的な絵が章ごとの扉絵に描かれているだけでした。だからこそ想像力を掻き立てられ、それが楽しいのですが、今振り返ると子どもの想像力、ひいては「想像力」そのものの限界を感じる読書体験だったかと思います。

❝小学2年生の❞読書体験

 本作の舞台はイギリスの、魔法を学ぶことができる「ホグワーツ」という全寮制の寄宿学校が舞台です。

ボーディングスクール英語Boarding School)は、全寮制の寄宿学校。

ボーディング(boarding)とは「寄宿、下宿生活」を意味する言葉で、両親や家族と離れ、寮生活において学業のみならず心身共に修養し、規則、礼儀、自立心、コミュニケーション能力を養成する。授業は少人数で行われることが特徴である。日本語では寄宿学校(きしゅくがっこう)とも訳す。 

ボーディングスクール - Wikipedia

  上記の引用のように英語では「ボーディングスクール」と呼ばれる全寮制学校の存在は、あらゆるマンガや小説で題材に選ばれるものなので、大人になるまでになんとなく知ることになるかもしれません。しかしながら、私が『ハリーポッター』を初めて読んだのは小学校2年生で、「寄宿学校」という存在そのものも知らなければ、映画の公開も1年後の話なので、映像的にも「イギリスの伝統的な学校」というイメージを知らなかった頃でした。

 当時そんな前提となる知識もなく読んでも面白かったのは、やはりストーリーやアイデア、シーン描写の素晴らしさに尽きるのかと思いますが、それでも日本で生まれ育った小学校2年生には想像力に限界がありました。

 今でも覚えているのは、当時私は主人公ハリー達が通っている「学校」を頭の中のイメージでは、自分が通っている日本の小学校の校舎で想像していたのです。

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小学校(デジタル背景カタログ学校編/ARMZ著・マール社より)

  ハリー達が「クィディッチ」という、箒にまたがって空を飛び、ボールを追いかける架空のスポーツを「競技場」で行っている、という描写があれば、「競技場=グラウンドだよな…」と小学校の「グラウンド(=校庭)」を飛び回っているのだと想像していましたし、そこに観客席からの声援のシーンがあると、校舎の教室の窓から、友人達がそれを見ているのだと想像することで整合性を保とうとしていました。

 その後、映画が公開された時の驚きは言うに及びません。私が「カルチャーショック」なるものを初めて受けたのは、本作の映画公開時かもしれません。

想像できること、できないこと

 つまるところ「子どもの柔軟な想像力」っていうのは、知識がないからこそ、それを埋める、整合性を保とうとして生まれるものなんじゃないかと思います。知識や体験が少ないと、自分の身の回りのものを想像の素材にするしかない、限定的なものになってしまい、またそれが思いもよらない発想に結びつくのかとも思います。

 それが面白いし、可愛らしいとも思うのですが、やはり知識が増えることにより想像の幅が広がることもありますよね。

 

*1:原語では「Sunshine, daisies, butter mellow」。主人公ハリーの最初の友達になったロンが、兄から教えてもらったという「ネズミを黄色に変える呪文」。ただ黄色いものを並べただけのでたらめなので、当然呪文は成功しない

『ピクミン』『Kingdomシリーズ』…「段取りゲーム」に取り憑かれて

 最近Nintendo Switchでリマスターされた『ピクミン3』ですが、『ピクミン』1作目が特に好きです。以下ピクミンのあらすじ

ホコタテ星では比較的名の知れたホコタテ運送会社のベテラン社員、キャプテン・オリマーは、連日の忙殺から気ままな一人旅を思いつく。しかし、旅の途中で思わぬアクシデントから未知の惑星へと墜落してしまう。その惑星は猛毒の大気(酸素)が多量に含まれており、なおかつ自身の生命維持装置も30日間しか保たない上、宇宙船のドルフィン号は大破。そんな絶望の中でピクミンという不思議な生命体と出会い、彼らと協力し、宇宙船の修理も目途が立ち始めたのであった…。

ピクミン - Wikipedia

 可愛いピクミン達や、当時ゲームキューブで再現された自然溢れる箱庭ステージの美しさ(特に「水」表現の素晴らしさたるや!)は言うまでもないのですが、私が特に夢中になったのは本作の「段取り性」!

 ゲームとしては各ステージ毎(全5ステージ)に配置されている宇宙船のパーツを、ピクミン達を引き連れ探索していくというものなんですが、一通りクリアすると挑戦したくなるのが最短クリア!

 もう、どのパーツがどこにあるのかどうやって辿り着けるのかは頭に入っているので、それをどう効率良く最速最短で攻略していくかを考えるのも楽しいし、それを自分がこなしていく(または上手く出来ない)過程にハマりました。

 あそこにあるパーツへ行く途中、ちょっとあそこに寄ってピクミン3匹に橋の建設させておいて、残りで途中の原生生物を倒し、半分に死骸を運ばせ、半分に掘削作業させて通路を確保し…などなど。

 本作はタイムリミットが30日間(ゲーム内時間。現実時間で1日は20分弱)と設定されていて、それを過ぎても必要なパーツを見つけていないと有名なバッドエンドを迎えてしまうのですが、最終的に私は「7日間クリア」まで到達できました!!(ゲームシステム上の可能最低日数は「6日間」なのですがそこまではできなかった・・・)

 

 そしてここ1~2年ハマっているのは『Kingdom : New lands』および『Kingdom : Two crowns』というインディーズゲームシリーズ。こちらも同じくドットで表現された自然の美しさに目を奪われるのは勿論、試されるのはやはり「段取り性」。

store.steampowered.com

 

  5つの島を渡り歩きながら、各所に砦を築き、毎晩襲ってくる「グール」と呼ばれる魔物から身を守りつつ、装備や人員を蓄え、最終的には各島のグールの根城を破壊するというゲームなのですが、こちらでもやはり、どのタイミングでどの人員にどんな作業をさせるかで、いかに効率良く身を守りながら反撃に転じるかという計画を練るのがとても楽しい。

 こうしたように、自分(=プレイヤーキャラ)は直接手をくださず、たくさんの部下に指示を出して攻略していくゲームが大好きです。

星野源/布団の限定しない歌詞世界

 わたしは星野源の大ファンなのですが、一番好きな曲はアルバム『エピソード』に収録されている『布団』という曲です。 

布団

布団

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この曲がしていないこと 

 この曲の歌詞は、主人公が(おそらく)一緒に暮らしている人物の出かけていく物音を布団の中で聞きながら、あれこれ心配したり落ち込んだりしている、というだけの歌詞です。劇的なことも起こらず、なんてことのない日常を歌ったこの曲がどうして素晴らしいかというと、それはこの歌詞が「主人公」自身のことはおろか、「大切な人」に関しても詳しい描写を全くしていないからです。

 いわゆる「何も言っていない曲」というものは多くありますが、この曲ではその「言っていない」部分が他とは違っているのです。それは「人称」です。人称とは「僕」や「私」などの「一人称」、「君」や「あなた」などの「二人称」、「彼」や「あの人」などの「三人称」のことです。多くの歌詞が描く世界観として、よくあるパターンを簡単に分けるなら、感情や概念について歌ったものと、物語性のあるものとがあると思います。前者ならまだしも、後者の歌詞(本作はこちら)で人称を使わないことはとても珍しいことだと思います。それでは、この歌詞は主人公達自身のことを描かずに何を描いているかというと、それは「状況」です。言ってしまえばこの歌は、状況描写を延々としているだけの歌詞なのです。

状況描写が生み出すもの

玄関から 鍵を閉める音
布団の外はまだ冷えて
空気が凍ってる

星野源/布団より

 主人公の周囲の状況を淡々と並べている歌詞*1がどういう効果を生むかというと、主人公達の関係性を限定しないのです。

 星野源は大ヒットした名曲『恋』でも、恋をしている「主体」や「対象」を限定しないことが評価されていましたが、その何年も前からそういった手法は行われていたのです。

 既存のこういったタイプの曲(歌手自身も、おそらくメインターゲットも若者)のセオリーに乗っ取って単純に歌詞を解釈するなら、この曲は「同棲している男女の恋人/夫婦の歌」です。しかし前述の通り、歌詞では人称が使われていないため、人称以外の部分で主人公達の設定を汲み取らなければなりません。そこで注目するのは語尾です。

語尾から読み取れるもの?

 この曲のサビでは「おかえりなさいは いつもの二倍よ」と主人公は「女性言葉」を使っています。そして終盤に登場する「大切な人」の言葉とおぼしき歌詞も「忘れ物を取りにきたの」と「女性言葉」を使っています。なのでこの曲は女性2人の歌なのかもしれません。さらに「~わよ」のような言葉づかいは、一定の年齢以下の女性は今時はまず言いません。なので、主人公はある程度年齢を重ねた女性なのかもしれません。

 それではこの曲は「出かけていく娘を心配する母親の心情を歌った歌」なのかというと、そうとも言い切れず、例えば後者は現代のジェンダー感覚からすると男性が言ってもなんら不思議ではない言葉ですし、サビの歌詞が主人公の発した言葉とはどこにも指定されてないので、比喩的に主人公の心情を語っただけなのかもしれません。それは歌い手である男性の星野源が男声で歌っていることも、さらに描写の曖昧さを助長しています。

曖昧さこそが魅力

 事程左様にこの曲は明確に主人公たちの関係性が断言できません。しかしこの「断言ができない」という曖昧さこそがこの歌詞の素晴らしさではないでしょうか。

 わたしはこの曲を聴いた当時、実家暮らしで半分ニート状態でした・・・。20代前半で親に甘えきった生活を送っていたわたしですが、この曲が上記のように関係性を限定しない歌詞であったことで、わたしには「朝早くに働きに出かける親を、布団から見送る引きこもりの歌」に聞こえたのです。そう言われれば「パラサイトシングルが、怠惰に引きこもりながらも抱える親への罪悪感」を歌っているようにも聞こえてきませんでしょうか。そんな解釈すらも許容してしまう(しているのか?)、「比喩性」がこの曲の、ひいては星野源の楽曲に通じる魅力だと思います。

*1:ただ淡々と並べているだけではなく、引用した部分のように、まず鍵を閉める音に注目させ、その次に部屋の寒さを述べることで、舞台が冬の日の静かな部屋であることをそれとなく伝え、なおかつその「寒さ」が主人公の「寂しさ」や「不安」を想起させる効果を生んでいます

『デジモンアドベンチャー』に託された子ども達への願い

 幼少期に夢中になっていたアニメ作品の1つが『デジモンアドベンチャー』です。

デジモンアドベンチャー 1999-2001 Blu-ray BOX
 

 「ポケモンを卒業した子どもたちへ」というコンセプトで制作された本作は、まさに子どもの頃夢中になって観ましたし、大人になってから観直す機会があった際に、子どもの頃は気づけなかった「大人たちからのメッセージ」が読み取れてさらに感動しました。

あらすじ

サマーキャンプにいた7人は何も知らずにいた。
それが誰も知らない世界への冒険のはじまりになることを……。
洪水。干ばつ。真夏にふる雪……。
世界中がおかしかったその年の夏。
 サマーキャンプに来ていた太一たち7人の少年少女は、日本では見えるはずのないオーロラから飛来した謎の機械の力によって異世界デジタルワールドに吸い込まれてしまう。
 謎と危険に満ちたその世界で彼らを待っていたのは、なぜか太一たちの名前を知る奇妙な生物、デジタルモンスターだった。

ストーリー紹介

選ばれし子どもたちの欠点

 本作の主人公は7人の子どもたちです(小学校2年生~6年生、のちに1人加わり8人になる)。ひょんなことから「デジタルワールド」に迷い込んだ彼らは、さながら『十五少年漂流記』のように、子どもたちだけで未知の生物「デジモン」と、時に協力し時に対立しながら無人島をサバイブしていきます。

  そんな今作ですが、シリーズ序盤のキャラクター紹介が巧みなんです。

 ある1つの異常事態(=不思議な島に迷い込んでしまった)に対するリアクションを次々と取らせることで、彼らの性格を描写していきます。例えば主人公の太一は、状況が分からないとなると何はともあれ木に登り、ポケットの単眼鏡で周囲を見渡し見えた海へ行こうと提案します。また最年長の丈は子どもたちで勝手に動くのは危険だと、大人の救助を待つことを主張。4年生のミミに至っては「おなかが空いた」「お風呂に入りたい」とわがままばかり。

 こうして物語序盤で示される主人公たちの欠点。太一だと「無鉄砲」であるとか「考えなし」。丈は「心配性」、ミミは「わがまま」。他にも最年少のタケルはその「幼さ」そのものが「足手まとい」などと思われてしまいます。こうした欠点を抱えた人物たちが物語を通してその欠点を克服して成長することが(特にこうした子ども向け作品では)ある種の典型的なパターンとしてあります。しかし本作ではそれが少し違います。

欠点の肯定

 いや、確かに「成長」することはするのですが、それが欠点の否定ではなく、肯定によって行われる点が注目に値するのです。

 シリーズ後半に、彼らが相棒のデジモン達をパワーアップさせるアイテム「紋章」を手に入れていくというプロットがあります。これらには「友情の紋章」や「知識の紋章」といった風に1人1人固有に、人間の美徳や概念のような言葉を冠した名称がついています。それがそれぞれ、シリーズ冒頭で示された彼らの欠点を肯定するかのような名称になっているのです。例えば「無鉄砲」な太一には「勇気の紋章」、「心配性」の丈には「誠実の紋章」、「わがまま」なミミには「純粋の紋章」、「幼い」タケルには「希望の紋章」といったように。

 つまり「無鉄砲」な少年がいた時、ついその無鉄砲さを抑制できるようになることが「成長」なのだと考えてしまいそうですが、本作ではその彼の「個性」「勇気」と名前を与えるのです。それこそが「成長」なのだと。または「心配性」な丈は誰よりも「誠実」に物事や他者へ向き合う人なのであり、ミミの「わがまま」さとは「純粋」ということで、タケルの「幼さ」とはつまり、未来がある「希望」なのだと、本作は言っているのではないでしょうか。

 上述の通り、僕は大人になって改めてシリーズを観直した時に、この隠された製作者からのメッセージに気づき、まるで親の愛情を大人になってから知るかのような感覚を抱き、ますます大好きな作品になりました。

伝説級のスタッフ陣!

 まあ、シリーズ中盤あたりからストーリーテリングの粗さが目立ってくるのは、目も当てられないものがあるのですが、少なくとも、数々のアニメ作品の脚本で神がかった手腕を振るっている吉田玲子さんの書かれた回(4話)や、その吉田さんと、今や世界に名をはせるあの細田守さんがタッグを組んだ回(21話)などは、今見ても恐ろしいほど美しく芸術的な一話になっていますので、そのあたりまでは一見の価値ありだと思います!