お月様、ヒナドリ、とろけたマーガリン

映画やマンガ、ゲームなどの無知と偏見に基づいた感想

【アニメ】『デジモンアドベンチャー』に託された子ども達への願い

 幼少期に夢中になっていたアニメ作品の1つが『デジモンアドベンチャー』です。

デジモンアドベンチャー 1999-2001 Blu-ray BOX
 

 「ポケモンを卒業した子どもたちへ」というコンセプトで制作された本作は、まさに子どもの頃夢中になって観ましたし、大人になってから観直す機会があった際に、子どもの頃は気づけなかった「大人たちからのメッセージ」が読み取れてさらに感動しました。以下あらすじ。

サマーキャンプにいた7人は何も知らずにいた。
それが誰も知らない世界への冒険のはじまりになることを……。
洪水。干ばつ。真夏にふる雪……。
世界中がおかしかったその年の夏。
 サマーキャンプに来ていた太一たち7人の少年少女は、日本では見えるはずのないオーロラから飛来した謎の機械の力によって異世界デジタルワールドに吸い込まれてしまう。
 謎と危険に満ちたその世界で彼らを待っていたのは、なぜか太一たちの名前を知る奇妙な生物、デジタルモンスターだった。

ストーリー紹介

選ばれし子どもたちの欠点

 本作の主人公は7人の子どもたちです(小学校2年生~6年生、のちに1人加わり8人になる)。ひょんなことから「デジタルワールド」に迷い込んだ彼らは、さながら『十五少年漂流記』のように、子どもたちだけで未知の生物「デジモン」と、時に協力し時に対立しながら無人島をサバイブしていきます。

  そんな今作ですが、シリーズ序盤のキャラクター紹介が巧みなんです。

 ある1つの異常事態(=不思議な島に迷い込んでしまった)に対するリアクションを次々と取らせることで、彼らの性格を描写していきます。例えば主人公の太一は、状況が分からないとなると何はともあれ木に登り、ポケットの単眼鏡で周囲を見渡し見えた海へ行こうと提案します。また最年長の丈は子どもたちで勝手に動くのは危険だと、大人の救助を待つことを主張。4年生のミミに至っては「おなかが空いた」「お風呂に入りたい」とわがままばかり。

 こうして物語序盤で示される主人公たちの欠点。太一だと「無鉄砲」であるとか「考えなし」。丈は「心配性」、ミミは「わがまま」。他にも最年少のタケルはその「幼さ」そのものが「足手まとい」などと思われてしまいます。こうした欠点を抱えた人物たちが物語を通してその欠点を克服して成長することが(特にこうした子ども向け作品では)ある種の典型的なパターンとしてあります。しかし本作ではそれが少し違います。

欠点の肯定

 いや、確かに「成長」することはするのですが、それが欠点の否定ではなく、肯定によって行われる点が注目に値するのです。

 シリーズ後半に、彼らが相棒のデジモン達をパワーアップさせるアイテム「紋章」を手に入れていくというプロットがあります。これらには「友情の紋章」や「知識の紋章」といった風に1人1人固有に、人間の美徳や概念のような言葉を冠した名称がついています。それがそれぞれ、シリーズ冒頭で示された彼らの欠点を肯定するかのような名称になっているのです。

 例えば「無鉄砲」な太一には「勇気の紋章」、「心配性」の丈には「誠実の紋章」、「わがまま」なミミには「純粋の紋章」、「幼い」タケルには「希望の紋章」といったように。つまり「無鉄砲」な少年がいた時、ついその無鉄砲さを抑制できるようになることが「成長」なのだと考えてしまいそうですが、本作ではその彼の「個性」「勇気」と名前を与えるのです。それこそが「成長」なのだと。または「心配性」な丈は誰よりも「誠実」に物事や他者へ向き合う人なのであり、ミミの「わがまま」さとは「純粋」ということで、タケルの「幼さ」とはつまり、未来があるという「希望」なのだと、本作は言っているのではないでしょうか。

 上述の通り、私は大人になって改めてシリーズを観直した時に、この隠された製作者からのメッセージに気づき、まるで親の愛情を大人になってから知るかのような感覚を抱き、ますます大好きな作品になりました。

伝説級のスタッフ陣!

 まあ、シリーズ中盤あたりからストーリーテリングの粗さが目立ってくるのは目も当てられないものがあるのですが、少なくとも、数々のアニメ作品の脚本で神がかった手腕を振るっている吉田玲子さんの書かれた回(4話)や、その吉田さんと、今や世界に名をはせるあの細田守さんがタッグを組んだ回(21話)などは、今見ても恐ろしいほど美しく芸術的な一話になっていますので、そのあたりまでは一見の価値ありだと思います!

【アニメ】『モアナと伝説の海』に学ぶ「挑戦の心境」と「伝統の打ち破り方」

 私がディズニーで一番好きな作品は『モアナと伝説の海』です。

 その素晴らしさに比べて、日本ではさほどヒットしなかった印象なのですが、実際どうなんでしょう。直前の『ズートピア』や『ベイマックス』、そして何より『アナと雪の女王』という大ヒット作品の影に隠れてしまった印象があります。そんなことないのに!!!素晴らしいのに!!!私は映画の美しさに毎回涙しています。

 以下あらすじ。

豊かな自然に恵まれた南の楽園、モトゥヌイ。タラおばあちゃんが子供たちにある伝説を語り聞かせていた。「命の女神テ・フィティの<心>には、命を創り出す偉大な力が宿っていた。その<心>を半神半人のマウイが盗んだとき、暗黒の闇が生まれた。だが、闇がすべてを覆いつくす前にサンゴ礁を超えて旅する者がテ・フィティの<心>を返し、私らを救ってくれる」と―。
そんな伝説を聞いて育った少女モアナは、幼いころに不思議な体験をしていた。まるで海が生き物のようにモアナに触れ、何かを伝えようとしたのだ。だが、モトゥヌイには島を取り囲むサンゴ礁の外には出てはいけないという掟があり、航海は禁じられていた。掟を守る村長のトゥイは、「大海原に飛び出して、その先に何があるのか見てみたい」という気持ちを募らせる娘のモアナに、「海は危険だ。お前の幸せはここにある」と言い聞かせていた。
ある日、モトゥヌイに不穏な出来事が起こり始める。ココナッツの木が病気にかかり、魚も捕れなくなったのだ。それらは全て、半神半人のマウイが盗んだテ・フィティの<心>によって生まれた闇が、今にもモトゥヌイを飲み込もうとしているからだった…伝説は本当だったのだ。
「自分の心の声に従うように」―タラおばあちゃんの最期の言葉を胸に、自分の運命を知ったモアナは大海原へと旅立つ。テ・フィティに<心>を返すために、愛する島と皆を救うために―。

作品情報|モアナと伝説の海|ディズニー公式

怖がりの子豚とおバカなニワトリ 

 多くの作品で、しばしば主人公は「動物の相棒(サイドキック)」と行動を共にします。その多くは主人公の心の声を代弁する存在として登場します。時に主人公の独り言の聞き役になったり、主人公は強がっているのに相棒は脇でブルブル震えていたり…。

 今作でもご多分に漏れず「動物の相棒」は登場するのですが、それが2匹も出てきます。子豚のプアニワトリのヘイヘイです。プアは八の字眉の怖がり屋で、ヘイヘイはなんていうか…おバカです。

 序盤、島の掟を破り軽い気持ちで海に出たモアナとプアは、客観的に見たら大したことのない小波にボートを転覆されてしまい、水深数メートルの浅瀬でサンゴに足を取られ、あわや溺れかけます。息も絶え絶えに浜へ打ち上げられたモアナとプア。プアはボートのオールに触れただけで飛び上がらんばかりに怖がります。そんなことがあってもモアナは「心の声」に従い、またおばあちゃんの言葉に背中を押され、再び海へと漕ぎ出すのですが、その際モアナは、プアを連れて行きません。

 どうにか波を超え島の海域を抜けたモアナは、その後なんとボートに紛れ込んでいたヘイヘイを発見します。島でのヘイヘイはエサと間違えて地面に落ちてる石ころをついばみ続けるほどのおバカです。ボートの上でも、足元を良く見ないで何度も何度も海に転落しそうになります。冒険に出たモアナは、なぜ怖がりのプアは連れていかないのに、おバカなヘイヘイとは行動を共にしなければならないのでしょうか。

 それは前述の通り、主人公と行動を共にする「動物の相棒(達)」は主人公の心の声を代弁する存在、ひいてはモアナ自身を象徴する存在だからです。

 プアはモアナにとって、故郷を離れ海へと旅立つことへの、または海そのものへの「恐怖心」を象徴する存在であり、ヘイヘイは生まれてから一度も航海なんてしたことのない、海に関して「無知」なモアナを象徴しています。つまりモアナは、「恐怖心」と訣別して大海へと飛び出し「無知」と共に海原を漕ぎ出すのです。

 セリフでの一切の説明もなく描かれる、なんて美しいキャラクター描写でしょうか。この描写に象徴されるモアナの感情に大きな共感を覚えるのは、きっと私だけではないと思います。時として私たちは、進学や就職、その他今までとは違う環境へと足を踏み出さなければいけない状況を目の前にして、当然「恐怖」し、それを振り払ったところで、あらゆることを「知らない」自分に、不甲斐なさや失望すら抱いてしまうこともあります。本作ではその過程を、勇敢で立派な歌や音楽と、またはチャーミングなコメディで、肯定してくれているように思うのです。*1

半人半神のマウイに教わる伝統的航海術

 荒波になすすべもなくさらわれ、モアナはある無人島にたどり着きます。そこにはあらすじにもあった「命の女神テ・フィティの<心>」を盗んだ、半分人間、半分神様のマウイが幽閉されていました。*2

 一筋縄ではいかないマウイを(半ば強引に)協力させ、最初にすることはモアナへの航海術のコーチです。上述の通り、モアナは航海に関してはてんで素人なので航海術を学ばねばならないのですが、その航海術を作中では「伝統的航海術」と呼んでいます。手を水平線にかざし星の位置(方角)を確かめ、あらゆる機能を司るロープを駆使しボートを進める、というもの。*3

 ここで重要なのは、物語冒頭モアナは「島の掟=伝統」を破って海に出たのに、その出た先で「伝統的航海術」を学ぶという、一見矛盾しているかのような行動をする点です。

 しかしこれは矛盾などではありません。「温故知新」という言葉があるように、新しく革命的なことをするには、より古くからの歴史を学ばねばならないという、ある種教えのようなものを表現しているのだと思います。昨今の「歴史修正主義」なんかを見ていると痛感するのがまさにこの問題で、過去の否定からは何も生まれず、過去を学び、しかし前に進んでいくという、この作品の示そうとしている思想のようなものに、私は毎回涙ながらに激しく首肯しています。

 以上のように、様々な演出を細かく取り出してみても、いちいち隅々まで行き届いていることに、近年のディズニーの、創作に対する真摯な姿勢や手つきが見て取れて感動するとともに、今作は私にとってかけがえのない作品ですし、つまるところこんな難しいこと抜きにして面白いからみんな観て!!ってことです。

disneyplus.disney.co.jp

*1:この動物を印象的に配置したキャラクター描写ですが、製作者のインタビューによると今作が影響を受けた作品の1つに『千と千尋の神隠し』があるそうです。『千と千尋』に関する説明は省きますが、その中にも主人公が動物たちと行動を共にし、たどり着いた先でその動物を置いてくる描写があります。ハエ(に変えられたカラス)と、ねずみ(に変えられた赤ん坊)と、孤独な妖怪(神様?)です。彼らはそれぞれ「主人に忠実なしもべ」、「駄々をこねる子ども」、「他者に対する閉じた心」などを象徴していて、「献身性」と「子どもらしさ」は連れて帰りますが「閉じた心」は旅先に置いてくることで、主人公が成長を遂げたということをさりげなく描いているのです。

*2:つまるところこれは「島流し」なのですが、あえて「幽閉」と書いたのは、これもここ10年ほどの、ディズニーだけでなくハリウッド映画の多くで試みられている、既存のジェンダー規範からの脱却を象徴する様なキャラクター配置です。つまり「捕らえらえていたお姫様を王子様が助ける」のではなく、「捕らえられていた屈強な男を、村長(むらおさ)の娘が助ける」という構図になっています。こうした細かい部分にまで行き届いている製作者の「手つき」とでも言うべき、1つ1つの品の良さを思うだけで感涙してしまいます。

*3:様々な映画で描かれるこういった「トレーニングシーン」は、この部分がいかに楽しく面白く描かれているかで、その映画全体の良し悪しを左右するほど重要だと個人的に思います。つまりこういった細かい部分でも手を抜かないかどうかという、製作者の意識が現れる部分だと思うのです。本作でも勿論この部分は楽しくワクワクし、良い具合に省略した描写で飽きさせない、とてもいいシーンです。

【アニメ】『泣きたい私は猫をかぶる』ちょっと不格好なプロット※ネタばれあり

 早速観た。面白かった!ただ終盤に難あり…!

 序盤から中盤にかけては、ドタバタラブコメの様相を呈しながらも「お面屋」の再三の登場が不穏さを加えていて、あまりネコ派でない私でも腑に落ちた。「ネコになるってそんな幸せか~?」って。

 びっくりして思わず家で観ていて「ええ~!?」と声を上げてしまった演出が、前半のムゲがリビングのテーブルを挟んで父、継母と向かい合って食卓を囲ってるシーン。そこで三人を真横から撮ったカットに切り替わると、画面中央に縦の直線が現れる。これは単純に右と左で別のカットになっているという、それ自体はやり尽くされた手法なのだけど、奥に見える(つまり三人のキャラクターの間=画面中心にある)ダイニングキッチンとカウンターの線が綺麗に左右繋がっているため(戸棚の扉の横の長さも自然な長さで繋がっている)、連続した1つの画角の中に縦線という異物が混入したかのような錯覚を覚える。そこに「?」と思っていると直後、画面左の父親がテーブルに身を乗り出して線の部分で頭が切れるので、これは右と左で別々のカットなのだと、そこで初めて分かる。よく見れば、テーブルの上の小物なんかが連続していないのでそうだと分かるのだが、初見時はそこまで細部に目が行き届かず、心底驚いた。

 こういう手法って、私が知らないだけで出典があったりするんだろうか。実写含め実験映画とかでやられていた手法の引用だったりするんだろうか。それとも作り手の意図していないもの?それにしてはやっぱり戸棚の長さのバランスとかが綺麗すぎる…いや分かんない。何度も見ると、明らかに別々のカットを2つ並べただけのシーンにも見える。どうなんだろう。妄想しすぎかな。

 前述のクライマックス直前の展開はどうも腑に落ちない。「付き合う前の恋する男女」というメインプロットが提示された時点で、クライマックスは「想いを告げる(または告げ合う)」ということは分かっていて、なんなら後半に差し掛かる段階で視聴者にも日之出の想いを明示してしまう為、その後サスペンス要素は「2人の気持ち」から「タイムリミットまでにムゲは人間に戻れるのか」に移動する。にも拘わらず、その解決の仕方が「加勢による解決」になっている(せっかく敵対者と2人だけという状況に持ち込みながら!)。

 もっと、2人だけの力で解決するなり、または本作のテーマ「自己開示(=猫をかぶらない)」に紐づけた解決方法を用意するべきだったのでは?それに付随して、散々序盤からずっとムゲが日之出のことしか考えられない「ロマンチックモード」とでも呼ぶべき状態や、両親に心を閉ざしたときに、周囲の人間がかかしになっているという印象的な演出を試みているのに、それはエピローグのセリフでサラッと回収してしまう(しかも「かかしに見えてた」とかセリフで言っちゃう)。

 そもそもテーマを「自己開示(=猫をかぶらない)」と前述したが、もしそれで正しいなら、クライマックスはムゲの両親や、日之出以外の人間に対する態度にスポットを当てるべきだったのでは?(ムゲの、継母への「猫をかぶっている」芝居がとてもとても素晴らしい)もしクライマックスシーンはムゲと日之出を2人きりにしたいなら、ムゲに対してもさらにもう一段階「開示」するべき、「猫をかぶっていた」問題があった、とか。

 または「猫をかぶらなくても私を好きになってくれるか」というオチなら、もっと前半に猫状態の時の絶望を描かないといけないのでは?猫状態の時に描かれているのは、「猫には見せてくれる彼の素顔萌え」とか「言葉が通じない(想いが告げられない)」とかで、それを描くなら「猫をかぶる」というモチーフを使う必要はないのではないだろうか。

 ムゲは「猫をかぶっている私には好意を向けてくれる」ことに悩んでいないように見える。素顔の自分に「嫌い」と言われ、その後猫となって自分から彼に会いに行くのも、「猫をかぶれば好きと言ってくれる期待」からではなく、「家族の問題からの逃避」だし(どういう神経してんだ!?と思った)。

 プロットを取り出すと不格好な作品だけど、細部のちょっとしたセリフ回しや芝居など、すごく気持ちよかった。

【アニメ】『BURN THE WITCH』真摯で誠実なアニメ化にやられた!

『BURN THE WITCH』をアマゾンプライムで観た。

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 原作を、短期集中連載だったのでその期間ジャンプを毎週買って読んでて、その時は全然響かなかったのに、なんならハッキリ「つまんない」とか思ってたのに、今回気まぐれ(というかファンとしての義務感で)観たら、かなり面白かった!私にとってこういう「原作モノ」って、逆のパターンばかりだったから(つまりアニメ化にガッカリし続けてきたから…)、こんな感想抱く自分にびっくり。

 改めてコミックを買ってきて読んだら、別に内容はかなり原作に忠実で更にびっくり。私の目が節穴だったということ。連載中、なにがそんなに私の脳みそを曇らせていたかを考えるに、1つはストーリージャンルを見誤っていたと思う。これはジャンルで言うといわゆる「刑事モノ」。勤め人の主人公達バディのもとに事件が舞い込んで来て、その対処に追われる…というもの。でもなんでそれが見えなかったんだろう…。何が私の理解を拒絶させたのだろう。当時の読後感を思い返すに、何か拒否感みたいなものがあった。単純にその時期の精神状態なのかな。余裕がなかった…?あとはそういう「刑事モノ」ドラマって全然観ないから、私のリテラシーが低かったのはあるかも…。不覚。

 また、今回観て初めて知ったんだけど、今作は「studio Colorido」が制作していた!!良いわけだ!新進気鋭のこれから来るだろうアニメスタジオで、数年前に『台風のノルダ』を池袋のHUMAX(だったかな?)で観たし、今年になって『ペンギン・ハイウェイ』を遅まきながらに観たのでよく覚えてた。

 いわゆる「ジブリ志向」な雰囲気と思想を持っていそうなスタジオだなあ、という印象だけど、それがこんな「ジャンプアニメ」を手がけるなんて!新進気鋭のスタジオだから、こういう大きな仕事には積極的なのかな。それともそういうのに分け隔てない思想を持っているのだろうか。後者だとしたら私の中で株ガン上がりなんだけど(というか、こんな丁寧な作りのアニメ、愛がないとできないのでは…)。

「ジャンプアニメ」といったらとにかく「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」で、ちょっと人気出たらすぐ雑なアニメにするって印象だったのに(まさしく久保帯人原作『BLEACH』のアニメ化で私はテレビアニメに見切りをつけたのに…)、例の『鬼滅の刃』にしろ、数年前も『ニセコイ』はSHAFTが制作していたりなどなど、方向転換というか、しっかりアニメも単体で面白いものを作ろうという方向にシフトしているのかな。ジャンプ編集部の方針なんだろうか。ハリウッド版『ドラゴンボール』のトラウマが強烈なのかな、とか邪推してみたり…。もしくは平日夜からアニメ枠が消滅したことによって、じっくりクール毎に作る深夜アニメしか行き場がなく自然に…ってことかな。なんにせよ、私は今小学生だったら良かった…。今小学生だったらアニメに失望することもなかっただろうに…。私たちには『NARUTO』があったけど、どちらかというと『BLEACH』派だったので、ぴえろの『BLEACH』チームには殺意しか沸かなかった…(OPは毎回最高だったことは言っておくけど…)。

 一応具体的に良かった点を挙げておくと、原作を踏襲しつつ、かなりアニメとしての見栄えを優先した改変がされていた。それはセリフや設定なんていう部分ではなく(そこも細かく編集されていたけど)、例えばカメラアングルだったり、ロケーションだったり、結構細かく違っていて。それが総合的に映像として見やすくさせているし、迫力や気持ちよさにもつながっている。久保帯人マンガはアクションシーンがマンガの時点ですでに迫力満点で、映像的な演出も巧みな作画だから、ついそのままのアングルやデザインで映像化したくなるだろうに(それで『BLEACH』は…)、そこを一から考え直して作られていて、すごく誠実に思えた。すごい。えらい。

『泣きたい私は猫をかぶる』という作品がNetflixで配信されているらしいので、これはもう明日にでも観る!このスタジオがもっと好きになった!追いかけていく!

【マンガ】『いちご100%』の「ハーレムマンガ」としての自己言及性

 子どもの頃夢中で読んだ河下水希先生のラブコメマンガ。

 以下あらすじ。

 映画監督を夢見る中学3年生の真中淳平は、屋上でいちごパンツの謎の美少女と出会う。彼女のパンツをカメラに収めたい真中は、学校一の美少女・西野つかさに告白し見事付き合うことになるが、屋上の美少女は西野ではなかったことが発覚。一見冴えない学校一の秀才・東城綾(後に屋上の美少女だったことが判明)や、進学した高校で出会う北大路さつき南戸唯らとのハレンチかつ甘酸っぱい学園生活を送りながらも、映画製作に励む青春劇。

 この作品、なにがそんなに魅力的かというと、当然女の子がかわいいとか、絵が綺麗だとか、いろいろあるんですけど、一番はドラマの描き方。文学的とすら言える、今振り返ってもこれがあの週刊少年ジャンプ」で連載し、人気を博していたとは思えないほど、いい意味で少年マンガらしくない、情緒豊かな描写が美しい。

 さらに本作の特筆すべき点は、表題の通りその「自己言及性」。

 本作は、主人公達が映画作りをするというメインプロットだし、おそらく作者自身、映画がとても好きなのだと思うのですが、登場人物が映画を観るシーンが多々出てきます。それも当時話題のファンタジー大作(ロードオブザリングを思わせるタイトル…?)であるとか、主人公は中盤から商店街の片隅にある名画座でアルバイトをし始めたりもします。

 その主人公(真中淳平)が、アルバイトとして雇ってもらえるきっかけになる、名画座で50~60年代の映画を観て号泣するシーン。ちょっと劇中映画のカットが描かれて無いし、真中のモノローグで語られる映画のあらすじからは情報が少なすぎて、引用元の映画を類推しきれないんですけど(もしかしたらマンガオリジナル?)。

 真中はこのシーンに至るまでに、好意を寄せてくれる女の子達に煮え切らない優柔不断な態度を取っていて、また未練がましくも中学時代の彼女のことを付き合っていた時よりも考えてしまっている自分に、自己嫌悪を抱いています。そんな中、部内の女の子と気まずくなり部活を早退し、後輩から渡された映画のタダ券で映画を観に行きます。以下シーンを抜粋。

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 本作はまあ、ちょっと言い訳できないほどに、いわゆるところの「お色気マンガ」や「ハーレムもの」の部類なのですが、ただそんな「ハーレムお色気マンガ」で、その渦中の主人公がまさに「ハーレムもの」的な内容の映画に感情移入して号泣するなんて、ちょっと他では考えられない様な自己言及性だと思うのです。

 そもそも映画やマンガ内で、登場人物が映画やマンガを観ている(読んでいる)場面というのは、まさに映画やマンガを享受している私たち観客(読者)の写し鏡であるとはよく言われますし、または「作者の想定する観客の姿の提示」かとも思うのですが、それをこんな「お色気ハーレム少年マンガ」でやるなんて…!!

 こういったジャンルは、要するに浮気性な主人公の最低さを「少年少女たちの夢」だなんてオブラートに包みながら、その点には触れずに都合よく、ドキドキする部分だけを描くものなのに、その最低さを主人公(と彼に同一化する読者)へ突きつけ、またそれが主人公の成長へと繋がっていくという、ドラマとしても美しいなら、このジャンルへの自己言及をも行っている点でかなりエポックメイキングな作品だと思うのです。

 この作品は2002年~2005年にかけて連載されていた作品ですが、この頃以降、世間的にもいわゆる「昭和的な」無頼漢で甲斐性があって、幾人もの女を魅了する「肉食的な」男性像こそが良しとされていた時代から「平成以降の」真面目で一途で「草食な」男性がイケているという、ジェンダーイメージも脱皮を始める時期かと思います。

 そんな中であくまでも男性の、キャラだけでなく、行動にまで言及している ―つまり外見上やキャラ上は「冴えなくて」「真面目で」「おとなしく」ても、思想の上では昭和的なマチズモばりばりの男性像を肯定している=自分もそうなりたいと願っているという人物像ではない― という点は(しかもそれを「少年」の中心的雑誌「週刊少年ジャンプ」紙上で!)、もっと評価されるべき作品だと思います。

【アニメ】『どうにかなる日々』の人形演技

 アニメ映画『どうにかなる日々』を観てきた。

 最高天才スーパー情緒神画力マンガ家・志村貴子先生原作の同名マンガのアニメ化作品。以下マンガ版のあらすじ。

ちょっと変わった恋愛模様とありふれた日常を、独特のテンポと繊細な心理描写で淡々と描いたショートストーリー集。基本的に1話完結のオムニバス形式で収録されている。大人の男女の組み合わせだけでなくゲイ、レズビアンや近親相姦さらには幽霊といった様々なキャラクター同士が絡むエピソードが描かれる。淡白な描き方ではあるが、ほとんどの収録作に直接的な性描写がある。

どうにかなる日々 - Wikipedia

 私は元々原作マンガを描かれた志村貴子先生の大ファンで、ただ、申し訳ないのですが、これまで志村マンガ原作のアニメに辛酸を舐めてきた過去があり…。

 今回もすごく不安を抱えながら特典付きムビチケ(前売り券)を買い、コロナ禍で延期された公開日を陰鬱な気分で待ち、重い足取りで公開初日に劇場へ向かったという、およそファンらしからぬ態度で臨んだのです。

 その結果…。

何度ドリンクをスクリーンに投げつけてやろうと思ったことか!!

 内容やセリフがいくら原作通りでも、絵柄を忠実に再現しようとも、こんな映画やアニメの基本もなっていない様なモノ、断じて認めん!!!うわああああ!!

 もう、シーン1つ、カット1つ取っても、その分かってなさが端々まで蔓延していて、何度舌打ちを飲み込んだことか!

 例えば、原作では「えっちゃんとあやさん」という題名のエピソードから以下のシーン。

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 ちょっとアニメ版の該当シーンを用意できなかったのですが、アニメ版ではこのシーン、映画を観る2人を真正面から煽り気味に描いていて、2人が人形か何かみたいに背筋を真っすぐのばして、顔も視線も正面を真っすぐ見つめているのです(そして申し訳程度に手を重ね合わせている)。

 そこには何も感情を感じさせない。何かそこから(頑張って)感情を読み取ろうとするならば、「2人で映画を観ていて気まずいの?」とか、「手を重ねているのが嫌だけど言い出せないという緊張感?」とか、または何か心ここにあらずな様子に見えてしまう。

 しかしどうやら、そのどれでもないらしいことは前後の話でも伺える(少なくとも原作はそんな展開ではなく、それを改変しているわけでもなさそう)。

 少なく見積もっても、知り合ったばかりの2人の女性が徐々に親睦を深めていく途中というシーンなのに、そういった機微が全然描かれていない。そんなことが全然伝わって来ない。しかもその静止画が数分止め絵で続く…。

 引用したマンガ版のカットには、そのアニメには足りていなかった全てが!一切のセリフもなしに!2人の姿勢だけで描き出されているのにですよ!↓

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 こんな素晴らしい作画がなされているマンガを原作にしておきながら、よくもまあ、あんな人形芝居をさせられるな!?と怒りに打ち震えたわけです。

 もしかしたら、象徴的に2人の頭上に映写室からの光が輝いていたりして、何か映画のオマージュかもと思うけど(500日のサマー?セッション?映画観てるカップルなんてシーン、ありふれ過ぎて特定できない)、それにしたって、あんな人形演技させる意味が分からない(SEにはそれぞれ実際の音を収録しているのか、何か「生っぽさ」を感じさせる音を選んでいるから)。

 一事が万事この調子で、おそらく監督(1エピソード毎に「演出」及び「作画監督」も付いている)は描かれているキャラクターの感情を理解出来ていないのではないか?と思わせるほど、何も描いていない!

 徹頭徹尾、セリフや、シーンの切り替わりのテンポが悪いし(オフビートとかでもない、気持ち悪い間の悪さ)、濡れ場や妄想を直接描かないイメージシーンを、薄ら寒いオヤジギャグ(ゲイの教師が男子生徒に恋心を抱くシーンで薔薇を咲かせる等)でやりやがって…(というか、これも『どうにかなる日々』原作にしておいて濡れ場描写から逃げてんじゃねえよって思うけど、これはまた作劇とは別の話かな…レートとか…)。

 なんというか…。私は志村先生の他作品でもこういった、先生の神作画から紡ぎ出される登場人物の感情の機微を摂取していたのですが、違うのでしょうか…。私のほうが間違った読み方をしているのでしょうか…。多作品のアニメ化でも、ことごとく私が大切にしている大好きな部分が削ぎ落されていて、今回もそうで、もう完全に小煩い原作厨が騒いでいるかの様な無力感を胸に劇場を後にした金曜日でした…。

 

■2020.11.07追記

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原作版パンフレット(パンフ+色紙)、週替わり来場者特典マンガ

 結局、週替わり特典が欲しくて、3週連続で観に行ってしまった。パンフレットのスタッフ対談もいろいろ読んだ。歯ぎしりしながら読んだ。

 やっぱりこの監督とは思想が相いれない・・・。

 例えば、原作に関する以下の発言群。

この作品の売りはセクシャルな表現ではないということ。だからそれをショッキングに見せることもしない

(パンフレットp10より)

 

”当たり前のものとして全部等価値で描きたい″

(パンフレットp10より)

 

佐藤さんから、性描写は、特別なことじゃなくて、普通に日常で食事や運動をしているみたいな感じで、その自然体の流れの中で描きたいというのがありました

(パンフレットp10より/※演出の有富氏が佐藤監督の過去の発言を要約して語ったもの)

 なんていうか、こういう細かい認識が違っているのだから満足できなくて当たり前かと思った。

 志村作品の、特に『どうにかなる日々』の魅力は決して、性描写を食事や運動と「等価値」では描いていないというのが私の認識で、例えば、食事シーンのロマンチック指数(特別性/描写的官能性?)を仮に「10ポイント」とした場合、従来の、性描写がロマンチックに描かれたマンガでの性描写の官能性は「50ポイント」程度だと思う。それと比較した際に、本作での性描写の官能性は「15ポイント」程度まで低くなってはいるが、決して「等価値」ではないというのが私の認識。

 どう考えても現代社会でセックスと食事が同じ感覚というのは、SFか何かで描かれこそすれ、そんなことはあり得ないと思う。(それを描いた藤子・F・不二雄先生の異色短編集の一編『気楽に殺ろうよ』は最高

 重要なのは、本作は性描写の価値を落とし(ロマンチック指数の低減)こそすれ、平等にはしていないということ。それをきっと作者は自覚しているからこそ、この短編集に「性」という一貫性(≒テーマ)が生じているのだと思う。ひいては作風とも言える。だから好き。

 それを映画製作者は認識を違えているから、本映画は原作マンガを読んだ時のような優しさや温かさ等の機微が排除された平坦な読み味(観味?)になっているんだと思う。